おいらが考える「言葉」とのスタンス
こんにちは。
ご無沙汰しております、はっしゅです。
通勤の車内に流れるFMから聞こえる、パーソナリティーの明るい「声」に朝から元気を貰います。
Twitter上は「文字」だけの世界だけど、それでもそこから「伝わるモノ」があります。
「声」も「文字」も同じ「言葉」です。
人の「言葉」に一喜一憂する。それはきっと相手の「言葉」を「自分の尺度」で受信するから。往々にして、「言葉」に嫌悪感を覚えるのは、自分の感性に当てはまらないからです。
特に「文字」の場合には、相手の表情も見えなければ、抑揚もなく、相手の真意が読み取りづらいですね。受け手の捉え方次第では全く違う意味となってしまうこともあり得ます。
過去、試しに、自分の尺度の「いい言葉」だけを集めてみたことがあります。常に前向きな気持ちでありたいと思ったからです。
そしたらどうなったか?
結果は「つまらなかった」です。
そして、いい言葉がスッと自身に入って来なくなってしまいました。なかには「いい言葉」だと思っていたはずなのに、嫌悪感を覚える「言葉」まで出てくる始末。
何が言いたいかというと、「いい言葉」は比較対象があってこそ初めてその「いい」という価値があるというこです。
一方で、いろんな「言葉」に触れていくと「気づき」や「感動」を頂くことがあります。
それは自分の尺度に一致しているからという場合が多いのですが、時として、そうとは言い切れません。
今までの自身の顕在的な意識に無い「言葉」と出会った時の「気づき」や「感動」は自分の尺度の中のそれより、遥かに大きいものです。
人は一人として同じではありません。同じではないから、いろんな考えがあり、それは「言葉」として表現されますり
相手の尺度で「言葉」を見聞きし、自分の尺度で「受け入れ」たり「受け流し」たりしていけばいいのではないでしょうか?
選択権は自分にあります。
大切なのはより多くの「言葉」に触れること。「会話」や「読書」、そしてTwitterやブログといったネットの世界。そうした中で「言葉」たちに触れることで「自分の尺度」は無限に広がっていく可能性を秘めていると思うのです。