大魔王とおいら〜依存症ですがなにか?〜

45歳 ギャンブル依存、風俗依存、多重債務からの脱却を誓いその軌跡や思いを綴る

おいらとパチンコ

おいらが記憶している一番古いパチンコの記憶は、確か3〜4歳の頃。両親に連れられて毎日のようにパチンコ屋に行っていた。

親の膝の上にチョコンと座って、銀色の玉が次々とはじき出されるのを眺めていた。当時のパチンコはまだ手打ちで、たまにおいらにも打たしてくれたりした。小さな手でパチン、パチンとレバーを弾くのだが、力が足りず、玉が行ったり来たり。それでも、何発かに一発、上手いこと弾き出されるとそれだけで嬉しかった。

それに飽きると、床に転がるパチンコ玉を手を真っ黒にして拾って回ったり、どこのだれとも解らない、ささ他のお客さんの子と追いかけっこをして走り回ったり。親が勝てば、景品のお菓子やおもちゃを獲って貰って、ご機嫌で家路についた。

今なら不謹慎と言われるだろうが、そんな時代だった。

 

それが、ある日を境に親はピタリとパチンコ屋に行かなくなった。当然、おいらも。

つい最近、親父に聞いた話では、「ブラボー」「フィーバー」と呼ばれるデジタル台が登場し始めた頃で、親父もその出玉に魅了されたそうだ。ある日、千円で三万勝ったことがあったという。当時としては大勝ちだったそうです。その翌日、親父はその三万を握りしめてデジタル台を打ったが、あっさり全部呑まれてしまった。そこで親父は「これはヤバイ台だ。もう、遊びの範疇じゃない」と悟り、その日以来、スパッとパチンコを辞めたそうです。

 

時は過ぎ、おいらは高校生になった。

この頃からパチンコを打ち始める。(18歳未満の遊戯は法律で禁じられております)

とは言っても高校生だけに軍資金2,3千円程度、ちょっと勝てば喜んでいました。

その後、高校を卒業し就職。この頃は人生初の彼女ができた時期でパチンコどころではありませんでした。

しかし、そんな浮かれた生活も長くは続きません。就職から一年、おいらは東京への転勤を命じられたのです。